木材の流通に関してエンドユーザーを代表し宮 康博さんにお話を伺いました。
宮さんは、輸入材の販路拡大の草分けとして商社の木材流通分野で40年以上活躍され、リタイヤ後も知事の肝いりで神奈川県の県産木材利用推進課長に抜擢されたりと木材一筋に歩んでこられた方です。
Q1 宮さんが1960年に大学の林学科を卒業された当時の木材の流通について教えてください。
A1 商社に木材部ができると言う事で、入社させて頂きましたが、当時は日本国内需要の80パーセントは国産材でした。20パーセントが外材。
1961年に当時の英領北ボルネオ、サンダカンに赴任し、3年滞在1964年、ちょうど、東京オリンピックの最中に、帰国しました。
当時のわが国の新設住宅着工数は、40万戸から50万戸、更に凄い勢いで増えてましたから、輸入材なくしてはとても、需要をみたせなかった訳です。
Q2 シアトルに駐在されていた1960年代には着工戸数も100万戸になり木材が不足したそうですね。
A2 シアトルに初めて駐在したのは、1966年、帰国したのは1972年ですから、この5?6年で日本の住宅着工数は100万戸をこえて何と、1973年には190万戸にまで増えました。
そして、輸入の中心は、米国、カナダのヘムロック(栂)でした。
私が訪米する少し前に、10月12日のコロンブス新大陸発見の記念日に北米西岸に大風が吹き、特にワシントン州のオリンピック半島には、大変な風倒木被害が発生しました。虫害が発生する前に、搬出しなければと大量のヘムロックが売りに出されました。
これが対日丸太輸出に弾みをつけたのですが、丸太の輸出については、地元製材工場との間で厳しい反対運動もあり、決して楽なものではありませんでした。
Q3 宮さんが帰国された1983年頃になると国産材3、外材7と、外材の比率があがりました。
A3 二度目の駐在は、1977年から1983年ですが、この頃になると外材比率は70パーセントに近づき、競争は激化、よって我々は色々と考えました。
効率の良い輸送方法、積み込み、積み下ろしのコストダウン、山林の入札方法、日本の各地方の適材適所、丸太輸入から製材品輸入への転換、引き肌改善、正寸挽き樹種の開発。山を見に入って、ワシントン州の美しいマウントベーカーで道に迷い、危うく一命をおとすところでした。
頑張ったお陰様で、外材比率はどんどん上がりピークは実に82パーセント迄上がりました。
しかしここまで自給率が下がってしまうと問題です。と言っても環境に配慮すると、すぐに国産材を大増産とは行きません。時間をかけねばえらい事になります。幸か不幸か、世界はもう昔のように、安い良質の材を日本に大量に売ってくれません。しかし、これからは真摯に林業と向き合ってゆっくりと考えていけば良いと思います。慌てる事など必要なし。
Q4 外材王国への反省もあって神奈川県庁に入られたのですか?
A4 神奈川県の木材生産量は、47都道府県中46番目です。
私の在職中は、1万立方メートルそこそこでした。年間の生産量です。
別にこれで問題ないと思います。もとより木材生産県では無いのですから。
しかし、製品の輸入県としては日本で常に3位より下がる事は無いと思います。製材品でも、合板でも、色々な輸入建材でも、何でも直ぐに注文に応じられる体制にあります。このパワーは大変なもの。現在のような状態になるには、10年、15年は掛かるでしょう。日本のトップクラスです。
木材の生産県ではなく、木材製品の輸入県としての今後の生き方を考えるべきです。